輝いて 株式会社セントレア  代表取締役 浅野 信二さん(49)

 誰もやってない、やったらみんなが助かるぞという仕事をやっていきたい
 
 津市一志町日置のサービス付高齢者向け住宅「いちしの里」。今年4月、 訪問看護、訪問介護、通い、泊まりのすべてのサービスを1つの事業所で担う、看護小規模多機能型居宅介護(複合型サービス)がオープンした。略して看多機(かんたき)と呼ばれる同施設は、求められるニーズに対応できる看護師ら人材確保が困難で経営が難しいサービスのため数は少なく、津市には2件、令和3年1月現在全国でも737事業所しかない。
「ありがたいことに、うちにはダブルワークも含め、今、看護師が38人います。そのうち2人は理学療法士です。これだけいてくれるので、活かさない手はない。地域に貢献していこうと思って開きました。しかし看多機(かんたき)は難しい。徐々に慣れていっている所です」と話す。
 高齢者施設「いちしの里」は、テレビや新聞で話題となった99歳の現役看護師・池田きぬさんが働く施設。10代から90代までの約80人のスタッフが互いをカバーし合いながら活き活きと働いている。「70代、80代、90代、皆さんありがたいことに活き活きと頑張っていただいています。年齢差別はしていません。能力があれば働ける職場です」。
 小さなころから本を読むことが好きだった。中学生の頃、衛星放送で多くの古い外国映画をよく観ていた。その中でフランスの映画に出会った。見るうちにだんだん魅せられるようになり、フランス語や、フランス文学を学ぼうと決めた。
 上智大学大学院博士課程を卒業し、更に同校で研究を続けた。父の経営していた「いちしの里」の経営状況が芳しくないと聞き、2012年、35歳の時に津市に戻ってきた。
 いざ蓋を開けてみれば、経営状態は非常に悪く、赤字続き。「ガッツリではなく、一度帰ってみようかなと思ったぐらいでしたが、初めてみたらそんなに甘いものでは無かった。質は低くてお金もない。やり方が無茶苦茶だったから変えないといけないと思い、介護の資格を取ったり、介護保険の請求事務の資格を取ったり、僕なりに勉強しました」。
 戻ってから1年後、介護施設を継ぐことになった。社長として、やり方がおかしいから全部変えようとしても最初はだれも付いてきてくれなかった。就任して1年の間に従業員の半数は辞めて行った。「苦しかったですね。地獄の日々でした。私はこれまで介護の経験がなく素人同然。従業員を引っ張っていくようなカリスマ性が無かった」とシミジミ。フランス文学の分野では、同期の中でも唯一研究者として大学に残るなど研究者としてカリスマ性を持っていたが、介護の世界では真逆だった。
 当時はサービス付き高齢者向け住宅(サ高住)しかやっていなかった。要介護度が高くなった場合や認知症が発症した場合など、1人で日常生活を送ることが困難になれば再度施設を検討しなけばならない。「寝たきりになったら利用者さんには出て行ってもらわなければならない。それで良いの?という虚しさがあった。せっかく帰ってきたのならやりがいのあることがしたい」と強く思い、訪問看護を作ることにした。
 訪問看護、今となっては色々なところで聞くが、13年前の旧一志郡には1件も無かった。募集しても看護師は誰も応募して来なかった。そんな中、当時88歳の看護師である池田きぬさんが“もう少し看護師として働きたい”と求人情報を見て応募してきた。年齢を見て正直驚いたが、池田きぬさんを雇用した。そこから事態が好転した。
 面接の時には一言も言わなかったが、池田さんは60代の時に国の叙勲も受けていて、部下を何百人も持つ、すごい経歴の持ち主だった。、働き始めて数日たった時に、以前から浅野社長がスカウトしていた看護師の橋口光子さんが、申し出を断るために施設を訪れた。池田さんを見て“池田さんがいるなら”といちしの里のスタッフとなった。そこから2人は「若い社長さんが訪問看護を立ち上げるから手伝って」とかつての同僚や部下に電話をし人材を集めた。「映画“オーシャンズ11”みたいな感じ。ひたすら電話して圧巻でした」2人のおかげで訪問看護が立ち上がった。「資格者番号を担当者に伝えたらビックリされました。4桁とかだったから。こんな番号あるの?って」
 訪問看護ができると社会信用度が一気に上がった。「いちしの里」ではベテランがどんどん雇ってもらえるとたくさんの就職希望者が来るようになった。若い人にも気持ちよく働いてもらえるよう柔軟なシフトや社宅を作った。また幼い子供がいても安心して働けるようにと施設内に保育所もオープンさせた。従業員は保育所を探す必要も無く、また子どもは0歳児でも1万5千円で預けられるとあって若い世代も多く施設で働くようになった。
 「いちしの里」では、“同一労働同一賃金”と言われる前から、賃金は年齢で差別されることは無く、職務内容で値段を変えている。「私が会社で働いたことが無いからできた自由な発想かもしれませんね。高齢者は、子育て世代には勤務が難しい朝の時間や休日に対応してもらえる。若い世代が高齢者と一緒に働くことによって互いに穴を埋め合う事が出来る。若手の雇用にもつながる」と話す。
 年齢で差別しない雇用形態は高く評価され、昨年3月に行われた、ASEAN(東南アジア諸国連合)10か国の関係者らが社会福祉・保健医療・雇用について議論するオンライン会合に池田さんと共に参加。「高齢者を雇うと若手スタッフの雇用につながるなど良いことがたくさんある」と話した。
 サ高住だけで運営していた施設、スタッフが揃ったことで県で一つしかない寝たきりでも行けるデイサービス療養型通所介護(療養デイサービス)を作った。訪問看護、訪問介護、通い、泊まりのすべてのサービスを1つの事業所で担う看多機(かんたき)も作った。いま、認知症がある人で医療的ケアの必要な人向けの老人ホームを作っている。「ニッチな事で良い。これが足りないな、こういうの誰もやってないし、やったらみんなが助かるぞ、という仕事をやっていきたいんです」。
 人材はすべて掘り起こし。他とは競合しないから、入居者もスタッフも10年近く一切営業をしてない。「誰もが子どもの頃に思った仕事につけるわけじゃない。一応僕はフランス語で飯を食っていきたいと思って、実際フランス語を仕事にすることができたので、ある意味幸せだった。それを辞めてまで帰ってきて、人材を取り合うようなことはしたくない。私やこの会社がなくても困らないような仕事はしたくないと思ってます。人生かけてやってきた仕事を辞めてまでやるなら、少人数でも困っている人のために働きたいと思ってます。“24時間看護”や“看取り”とか大変だけど、でもだからこそ意味がある。困っている人や行き場のない人を助ける。それにこそ私がここにいる意味がある」と語気を強める。
 そんな姿勢で取り組んでいると、スタッフから“社長こんなのあったらいいのになって”声がかかる。「何だかニーズは勝手に向こうからやってくるんですよ。私はそれに答える感じです」。今は医療的ケア児を受けるデイサービス等を作りたいと考えている。「ここまで来たら、もう責任かなと思ってきたんですよ」と笑う。
 今も週に1度、亜細亜大学でフランス語を教える。「これは生きがいです。多分フランス語喋る介護の経営者は私ぐらいかな」。介護の仕事と真剣に向き合う今、学生たちにかける言葉も少し深みが増す。