シベリア抑留の犠牲者を追悼
久居野村町の墓地公園で慰霊祭
悲惨な戦争が起きている今だからこそ
シベリア抑留の犠牲者を追悼する慰霊祭が2日、津市久居野村町駒野の陸軍墓地公園内にある慰霊碑前広場で開かれた。抑留体験者や遺族ら約30人が参列し黙祷を捧げた。抑留体験者は「悲惨な戦争が起きている今だからこそ伝えたい。繰り返さないように」と訴えた。一般財団法人全国強制抑留者協会実行委員会三重県支部主催、高田短期大学ボランティア部協力。
シベリア抑留は、第二次世界大戦終戦後、武装解除されした日本軍捕虜や民間人らが旧ソ連によりシベリアやモンゴルなどに移送隔離され、強制労働を強いられた。拉致された日本人は約57万5千人に上る。厳寒環境下、満足な食事や休養も与えられず、過酷な労働を強いられ約6万人が寒さや飢えなどで亡くなった。
慰霊祭は2006年11月、同地に慰霊碑が建立されて以来、毎年11月に開催されていたが、出席者が高齢になり寒い時期よりも気候の良い時にと、昨年から4月に実施。今年で17回。
三重県支部支部長長の林英夫実行委員長は「尊い命を犠牲にされた遠い異国の地で眠る戦友たちのことを片時も忘れたことはない。これからも忘れることなく追悼していきたい。抑留体験者として真実を後世に伝え、再びこのような悲劇が起こらないよう平和な世界が続くことを願っている」と式辞を述べた。
参列者は一人ひとり白いキクの花を慰霊碑に献花し、実行委員会メンバーの一尾郁美さんの演奏に合わせ「異国の丘」を献歌した。新型コロナウイルス感染対策のため、ハミングでの合唱だったが、心を込めて歌を送った。
伊勢市在住の抑留体験者の大丈敏夫さん(99)は「食事は、昼は黒パン1切れか麦飯。晩にはスープ1杯だけ。空腹に耐えられず野草も食べたが、青いものはスイセンでも食べた。馬の糞をジャガイモと間違えて拾うこともあった。常に飢えと寒さで極限状態だった。夜、食べたいものの話をして、隣で寝ていた友が朝には冷たくなっていた」と、死と隣り合わせの日々を振り返った。
林支部長は今回のウクライナ侵攻で77年目と同じようなソ連の暴挙が思い起こされると語り、「帰国のためとされた貨車でソ連兵も『トウキョウ、ダモイ(帰国)』とジェスチャーを交えて語りかけた。捕虜とは考えず、防寒対策も十分でなかった。日本に帰るとだまされ連れていかれたのはモスクワから数百キロ離れた収容所。3年半森林伐採に従事した」と当時の状況を話した。そして今だからこそ、「その時と同じことをウクライナの人々にしている。人道回路と逃がすと見せかけてシベリアに連れて行っているという。再び過ちを繰り返している。本当に居たたまれない。私たちの体験を若い人に伝え、繰り返さないようにしたい」と訴えた。
悲惨な戦争の歴史とその犠牲者に関する記憶を伝え残していくことが、年を追うごとに難しくなっていく。 実行委員会の杉谷哲也副実行委員長は「次の世代に引き継ぐことが非常に難しい。短大生たちに開催の手伝いなどを依頼するなど、なんとか対策を講じながら開催している。シベリア抑留の事実を何とか風化させずに後世に継承していきたい」と力を込めた。
終了後、一尾郁美さんのサックス演奏会もあった。
同支部は9月に23日(金)~9月25日(日)、津市羽所町のアスト津でシベリアに抑留された事実を伝える展示会、24日(土)には「抑留体験の労苦を語り継ぐ集い」を行う。
杉谷さんは「今、まさに同じような悲劇がウクライナで起きている。抑留者の苦労や戦争の悲惨さを知り、平和の尊さについて考えてほしい。抑留者は高齢化しており、活動できなくなった支部も多い。ぜひ貴重な話を聞いていただきたい」と話す。。