駒田 博之
今久居が面白い。
そもそも久居は野邊といわれた荒れ地に、1669年(寛文9年)津藩主藤堂高虎の孫・高通が分家として五万石を分封され、城下町を造り「永久鎮居」を願い「久居」と名付けられた。
あくまでも、親藩津の藩主に跡目がない時のための支藩で、築城が許されず陣屋がおかれた。2代目高堅から五万三千石に加増され、16代高邦まで津、伊賀、名張、すなわち藤堂4藩は200年続き明治維新を迎えている。
この間、津藩の跡目相続のために久居藩から何度かの藩主を出している。
久居中学グランド辺りに御殿があり、その一部が孝通公園になっており、現東西鷹跡町に武家屋敷、万町、二の町、幸町、寺町、旅籠町、本町に町家があった。狭い道でも遠くまで見渡せるまっすぐな町割りがなされ、現在もその多くが残っている。特に、奈良街道の角地には芭蕉の句碑などもあって往時を偲ばせる。
現在の久居は13年前に津市と合併し、伊勢自動車道の久居インターチェンジを挟んで東西に大型商業施設、三重中央医療センター、警察署、消防署などがあり、久居駅前を中心とする旧市街の商店街と趣を異にする。近鉄線路の東側には陸上自衛隊久居駐屯地があり、演習場など広大な土地を占める。この駐屯地では、毎年「桜まつり」「花火大会」、時には航空機も参加する「記念式典」や「観閲行進・訓練展示」などを開催、市民との交流は楽しい年中行事となり定着している。
旧市街の中心に鎮座するのが野邊野神社で、元々久居藩領内の小戸木村に鎮座されていた八幡宮が1670年(寛文10年)に久居初代藩主藤堂高通の命により御殿の鬼門の方位にあたる現在の地に還され「久居八幡宮」として鎮座したのが始まりである。明治維新の廃仏毀釈によって、万町鎮座の愛宕神社、西鷹跡町鎮座の久居神社、外21社が久居八幡宮に合祀され、また野邊野の社名は土地の旧名にちなみ現在の名称に改称された。
野邊野神社では、神社本庁が認めた初の外国人神主、オーストリア出身のウイルチコ・フローリアさんが入り婿禰宜として活躍、地元の人よりよほど久居の歴史を知っており、野邊野神社のいわれを流暢な日本語で話してくれ、あまりの面白さについ時間を忘れて聞き惚れてしう。
この野邊野神社、来年の1月1日野邊野神社から元の「久居八幡宮」に名称変更する。
近鉄駅前から西に広がる旧市街には、街の電器屋さん、魚屋さん、豆腐屋さん、下駄のある履物店、本屋さん、昭和の匂いがする食堂、昔ながらの店舗店名に拘る酒・醤油店、江戸時代の酒蔵を活かしたホールを持つ酒造店、料亭などが点在し、居酒屋風寿司屋、焼き立てパンやケーキのカフェ、洒落たレストラン、好みの詰め物をしてくれるコッペパン屋、温熱療法のマッサージ店、バイクレンタル店など、新しい商店が見事に溶け込んで久居の街を面白くしている。
また市街には、高通公が久居藤堂家の菩提寺とした玉せん寺、高田本山との姻戚寺院妙華寺寺など、多くの藤堂家ゆかりの寺院が建立されている。
久居は「久居ふるさと文学館」や図書館での読み聞かせなど全国的にも有名で、かつて久居市でもあった榊原の「枕草子」の著者清少納言、エッチングの普及に半生をかけた西田半峰、江戸時代の名医にして旅行作家・橘南谿、町医者でありながら典医でもあった小屋延庵等々、文学の香りが高い町でもある。
また、近々忠犬ハチ公の飼い主として久居出身の農学博士・上野英三郎がクローズアップされ、ハチ公と博士の像が久居駅西緑の風公園内に設置されている。
なお、久居で忘れてはならないのが伊勢自動車道の西に位置する戸木(へぎ)の「雲出井用水」と「風早池」である。戸木は加佐波夜国(かざはやのくに)と言われていたことが「古事記」にみられることから、古くから人が住み、また古代に有力な豪族がいたことが伺える。
「雲出井用水」は寛永19年の大干ばつ、天保3年の大凶作を受けて、久居台地を迂回して雲出流域までの13キロメートルに及ぶ農業用水で、夜間に提灯を並べて高低を決めたりサイフォンの原理を応用するなど、西島八兵衛の優れた技術と村人たちの血のにじむような努力で慶安元年に完成し、以後干ばつの心配がなく600余町歩の水田がその水の恩恵を受けている。
「風早池」は垂仁天皇が全国に造らせた800の池の一つと言われ、大雨ごとに堤防が決壊するのを防ぐために池には女巡礼を人柱にしたという伝説があり、それ以後決壊がなくなり今では県下でも有数の灌漑用水ため池となっている。
「かざはやの里」には梅650本、あじさい75000本が植えられ、花の咲く時期には市外からも多くの花見客が訪れる。
そして、来年6月市民待望の久居ホール「津久居・アルスプラザ」が市役跡にオープンする。
ともあれ、今久居が面白い。
(津がつながる津ぅりずむ代表)