おキツネさんといえば、お稲荷さん。
 稲荷大神は稲作の神であることから、狐がそのお使いとされているのですね。
 榊原には狐も狸もたくさんいます。
 榊原のおキツネさんは狐ではなく、榊原信濃守興経(さかきばらしなののかみおきつね)公のことです。
 時代は戦国時代にさかのぼるのですが、三河の武将・仁木義長が三河の守護、また伊勢の守護などを歴任し、仁木氏は何代にもわたり守護を続けていましたが、義長から五代末裔の利長がこの地に城を築き、姓を仁木から榊原に替えているのです。
 榊原氏の誕生です。
 榊原氏はその中の一族で清長が三河に戻り、松平氏に仕えたと伝えられ、孫の康政は徳川四天王になり、三河榊原氏はよく知られるところです。
 でも地元に残った榊原氏は、せいぜい一志郡史や久居市史で紹介される程度です。
 私が子供のころから知っている榊原氏といえば、城山に榊原さんのお城があったことや、隣の家が榊原さんだったことぐらいです。
 隣の榊原さん(現在は引っ越され榊原姓は途絶えました)のお墓は、私たちのさんまい(共同墓地)の中ではなく、ヨメオトシの山の中腹に、たくさんの墓石が並んだ大規模なお墓跡があります。
 お墓跡とは、主だった墓石は菩提寺の林性寺に遷され、その一部が残っている程度です。
 さて話をおキツネさんに戻します。
 榊原信濃守興経の名が残るものは、江戸時代になって描かれたらしい榊原城縄張の図に記されています。
 また温泉の神を祀る射山神社の棟札に、はっきりと榊原信濃守興経の名が記され、天文十九年(一五五〇)に社殿の造営されたことが分かります。
 ほかに榊原で確認できることでは、信濃守興経は伊勢神宮の大宮司をされていたようで、棟札の名前の上に大中臣氏の肩書きがあるのです。
 時は南北朝時代で、北朝は内宮、南朝が外宮だったことから信濃守興経は外宮の大宮司だったのでしょう。
 そのころは斎宮もなくなり、また式年遷宮も出来ないほど、神宮は荒廃していました。
 大宮司を司る信濃守興経は、天皇に神宮参拝を実現させたい、もう一度お公家さんたちに伊勢に来てもらおうと、昔に習って、この温泉で湯ごり(禊)が出来るような大きな施設、百室を超える温泉会所を造営されました。
 当時の図面を見ると、自然の地形を活かし、また吉原の遊郭のように建物で囲うなど、出入り口を東門のみとした、防犯面に考慮された施設となっています。
 信濃守興経は、地元の記録では一番古いので、地元に残る初代の榊原氏なのかも知れません。
 この信濃守興経の塚があると記されているのは、明治二十七年(一八九四)榊原温泉会所発行の温泉来由記の中に、射山神社一ノ鳥居跡に隣接していると、記されています。
 私は子供のころから射山神社一ノ鳥居跡は知っていましたが、途中で折れて「山神社」が、かろうじて読める程度でした。
 その周囲は折れた石などがごろごろしていたし、塚などは知らなかった。
 今から三十年前に射山神社御遷座四百年祭という行事があって、一ノ鳥居跡の碑が建て替えられました。
 そして周囲をきれいに整理され、以前の折れていた石柱も敷石の一部に寝かされています。
 もしかすると、そのときしっかり確認すれば塚の一部も見つかったのかも知れません。
 今となっては掘り返すわけにもいかず、塚はどんな形態をしていたのかも分からないため、由来記に書かれている「榊原信濃守塚」に「跡」を加えて、新しく建立されました。
 すぐ近くには西仙寺跡があり、宗派は時宗でした。また誓岸寺観音堂も隣接するようにあったことから、塚があったことは不自然でもないようです。
 榊原城跡(城山)の少し西にあたります。
 この地を「ふるさと」と、訪れる榊原さんをご案内するポイントがまた一つ出来ました。
 現在もこの周辺に出没するお狐さんは、この碑をなんと見るでしょう。

榊原温泉ふるさと案内人 増田晋作